デザイナーの山本寛斎さんが2020年7月21日に急性骨髄白血病で亡くなっていたことが、娘の山本未来さんのインスタグラムで発表されました。
山本寛斎さんが、どのような生い立ちなのか気になったのでまとめてみました。
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山本寛斎の生い立ち
山本寛斎のプロフィール
本名:山本寛斎(のぶよし)
生年月日:1944年2月8日
享年:76歳
生まれ:神奈川県横浜市
山本寛斎の出身は横浜じゃなく岐阜!?
山本寛斎さんの出身について調べると、横浜と出てきますがどうやら横浜は”出生地”のようです。
山本寛斎さんは横浜で生まれ、両親が離婚し、父親の故郷の高知に引っ越します。
しかし、父親の育児放棄によりたらいまわしにされ、大阪と高知で転校を繰り返しています。
岐阜県の父方の祖父母の家に引っ越したことで、安定した生活ができるようになったので、岐阜が出身地とされています。
山本寛斎の高校は?
山本寛斎さんは、中学頃から岐阜県で暮らしており、高校もそのまま岐阜県で進学します。
山本寛斎さんの高校は岐阜県立岐阜工業高校(偏差値47-49)です!!
山本寛斎さんが入った土木科は現在は無くなっていました。
山本寛斎さんは建築に興味がありましたが、建築科がなかったため土木科に入りました。
入ってみると、建築の前段階の基礎工事の話ばかりだったのでがっかりしたらしいです。
ちなみに建築に興味を持ったのは、当時人気があった雑誌「月刊明星」「月刊平凡」で若い建築家がモテていたからです。
山本寛斎は大学を中退!?
山本寛斎さんは、高校卒業後日本大学文理学部英文科(偏差値52)に進学します。
上京後、真っ先に生き別れた母親を訪ね、母親は横浜で洋裁教室を開いており、そこで装苑賞(新人デザイナーのためのコンテスト)を知ります。
どうしてもファッションデザイナーになりたかった山本寛斎さんは大学を中退することに決めたのです。
その後はコシノジュンコさんの下で修業し、8回目の挑戦で装苑賞を受賞します。
山本寛斎がファッションデザイナーを目指したきっかけ
山本寛斎さんがファッションデザイナーを目指したきっかけは映画です。
小さいころ父親が洋服の裁縫業をはじめ、寛斎さんも手伝うようになり、中学生でミシンを踏み始めます。
その後映画「太陽がいっぱい」を見たことで、ファッションデザイナーの道を志すようになったのです。