2020年1月30日の「アンビリバボー」では、『サハリンと日本に引き裂かれた家族たちのため国を動かした男』が放送されます。
何やら難しそうな話ですが、どんなことがあったのでしょうか?
そのサハリンのために、「元日本サハリン同胞交流協会」を立ち上げ、会長に就任したのが小川よういちさんです。
小川よういちさんは、サハリン残留日本人のために尽力したことで、今回「アンビリバボー」に取り上げられるようです。
では、小川よういちさんとはどんな人なのでしょうか?
Contents
小川よういちとはどんな人?サハリン残留日本人とは?:アンビリバボー
そもそも「サハリン残留日本人」とは、どういった事情で残留することになったのでしょうか?
サハリンは、北海道の北部にある島のことです。

出典:グーグルマップ
日本では、1905年にサハリン島南部を「樺太」と名付け、そこにいる先住民を日本人に同化させた歴史があります。
そして、1945年の第二次世界大戦後には、一方的に国交断絶を宣言したソ連によって占領されることになりました。
その直後から、日本人の本土への引き上げが始まりましたが、中にはサハリンから帰国できない日本人もおり、サハリン残留日本人が生まれたのです。
サハリンから帰国できなかった理由は色々とあるようですが、主に
①ソ連が手放そうとしないほどの技術者。
②現地の人と結婚しており、サハリンを離れられなかった。
という理由が一般的のようです。
小川よういちのwikiプロフは?:アンビリバボー

出典:毎日新聞
名前:小川岟一(よういち)
享年:85歳(2017年7月31日)
出身地:樺太大泊町谷町(現サハリン州コルサコフ市)
小川よういちさんは、2017年の7月31日にすでに亡くなっています。
死因は肺がんでした。
結婚もしており、奥さんもいたようです。
小川よういちの経歴は?:アンビリバボー

小川よういちさんは、出身地からわかるとおりサハリンで生まれました。
しかし、小川よういちさんは1939年の第二次世界大戦開始直後に帰国しており、サハリン残留日本人ではありません。
帰国後の小川よういちさんは、
・衆議院速記者養成所(すでに廃止)に就職
・19歳で日本経済新聞社に入社
という経歴を辿ります。
小川よういちさんは、日本経済新聞で働きながらも中央大学法学部の夜間を卒業し、安保闘争の組合に参加するなど、激動の人生を送っていきます。
小川よういちさんが、サハリン残留日本人について知ったのは、日本とソ連の国交が回復し、サハリンを訪れることができるようになってからでした。
サハリンで、残留日本人の野呂静江さん(当時62歳)に声をかけられたことで、永住帰国のために日本政府と交渉することになったのです。
小川よういちのサハリン帰国はどうなったの?:アンビリバボー
サハリンで、野呂静江さんに助けを求められた小川よういちさんは、務めていた日本経済新聞を休職し、1989年に「サハリン同胞一時帰国促進の会」を立ち上げます。
そして、日本政府との交渉を重ね、90年5月に12人の邦人の一時帰国が認められます。
その後97年には、野呂さん家族も永住帰国を達成したのです。
小川よういち(サハリン協会会長)のまとめ:アンビリバボー
1月30日の「アンビリバボー」で放送される、サハリン残留日本人の帰国に尽力した小川よういちさんについてまとめてみました。
自分もサハリンにいたとはいえ、仕事を休職してまで、打ち込めるなんてスゴイ人ですよね。
1:小川よういちは、「元日本サハリン同胞交流協会」の会長
2:小川よういちは1997年にサハリン残留日本人の永住帰国を達成した。
以上になります。最後までお読みいただきありがとうございました。